同和教育 部落解放

minken333.exblog.jp
ブログトップ

目次

目次

1 提言 同和教育の終結にあたって

2 八鹿高校事件の思い出


  暴行翌日の「八鹿病院激励」
  「朝来町調査報告書」「八鹿高校事件調査報告書」のことなど

[PR]
# by kokumin111 | 2016-08-18 21:56

提言 同和教育の終結をめざして

提言 同和教育の終結をめざして
一九九九年一月一五日
国民融合をめざす部落問題和歌山県会議
 私たちは同和教育をただちに終結することを提言します。
 子ども達をこれ以上旧身分で分けへだてすることは、融合を疎外し、差別を長引かせることになります。そのため、次の取り組みをすすめましょう。

一、「和歌山県同和教育基本方針」を廃止させましょう。

二、旧身分を特定する「同和地区児童生徒基礎調査」をただちにやめさせましょう。

三、同和加配教員制度を廃止させ、同推教員を返上しましょう。

四、同和地区の子どもだけを特別扱いする「同和教育子ども会」は、ただちにやめましょう。

五、同和教育を推進する研究会は、自主的に解散しましょう。

六、部落問題を特別にとりだす「部落問題学習」をやめましょう。







国民融合のめざすもの
国民融合をめざす部落問題和歌山県会議
  代表幹事 池田孝雄

国民融合を目指す部落問題和歌山県会議のあゆみ

 国民融合を目指す部落間題全国会議(全国会議)は八鹿高校事件を契機に一九七五年九月二一日大阪府吹田市民会館で三一都府県の代表一五〇〇人が参加して結成されました。
 和歌山県ではこれより先の七四年八月一八日、白浜町坂田会館で第一九回部落解放同盟和歌山県連合会大会に「解同」中央本部の主張する部落排外主義に心を寄せる一部不平分子(崎山派)が大会粉砕を唱えて会場に乱入し、暴力の限りを尽くしましたが、部落解放同盟を軸に多くの民主団体が、部落解放運動の伝統を守りながら「民主主義と人権を踏みにじり、地方自治と教育を破壊しようとする」これら暴力集団に厳しく批判を加えました。さらに七六年五月一六日、県立和歌山商業高等学校体育館で部落解放運動のために努力する団体と部落問題の解決を願う部落内外の個人が思想信条所属の違いをこえて、県内各地から一〇〇〇人にあまる人々が参集して「国民融合を目指す部落問題和歌山県会議(県会議)」を結成しました。
 しかし、県会議はその後全国的にもすぐれて先進的な活動を行いましたが、一方和歌山県では解放運動の主流を形成した和歌山県部落解放運動連合会(和解連)が国民融合路線に立脚して運動を進めたため、県会議の活動は総体的にその比重を小さくしていきました。とはいえ結成以来一貫して「解同」やそのエセ同和団体などの部落問題の解決に逆行する不法な行動については批判を加え、また具体的な事実に基づいて「部落差別は解消の過程にある」ことを明らかにし、正しい部落問題についての理解を広げる活動を進めてきました。
 あるいは部落問題の現状を正しく分析し、同和対策事業や特別対策から一般対策への移行の問題、同和教育や国民の学習活動、いわゆる啓発の問題等について国民融合の立場からそのあり方を解明し、問題提起し、国民世論の形成に大きな役割を果たしてきました。

部落をめぐる現在の状況

 同和対策審議会答申(一九六五)が出され同和対策事業特別措置法が制定された頃の和歌山県の部落の状況は、総体的に生活水準はもとより、教育水準も一般地区と比べてかなりの格差のあった事は確かでした。しかし以来今日まで、およそ三〇年に及ぶ特別対策の結果、そうした格差はほとんど解消され、住民の意識も大きく変化していることが誰の目にも明らかになってまいりました。
 和歌山県同和委員会が行う県民の同和問題・人権意識についての意識調査を見ても、間題の解決の大きく進んでいること、即ち多くの人々の間に人権意識が定着し、民主主義社会の実現への努力が一層前進していることが顕著になっています。
 もっとも和歌山県同和委員会はこうした調査の結果、遅れた面を強調して、いまなお「部落差別を始めいろいろの差別」がなお抜き難いかのように描いています。私共はせっかくの調査を何故遅れた面のみ強調するのかという懸念とともに、日本国憲法制定以来半世紀を経た今日、そして同和間題解決を国の責務とし国民的課題として取り組んですでに三〇年を経過した今日、和歌山県内はもとより、広く全国的にも、部落問題は基本的に解決し、「真に自由・平等の民主日本を建設する」基盤の確立されていることを、換言すれば国民融合の著しい前進を強く認識しております。

同和行政・同和教育の終結と国民融合の前進のために


 国民融合とは、部落内外の格差をなくし、日本国民として、生命、自由、平等などの権利が尊重され、個人として幸せに生きる社会を作り出すことにあります。前述したように同対法制定のころには「部落だから」という理由で個人として幸せに生きる権利(日本国憲法第一三条・一四条)の犯されている点が多くありました。
以来三〇年に及ぶ部落内外の多くの人々の努力で、そうした障害(差別)がほとんど解消され「二一世紀に部落差別を持ち越さない」というスローガンがいま現実のものになろうとしている事実を、私たちはきちんと見ていく必要があります。

 国民融合の運動は七〇年代を通じて解同の暴力的「糾弾」や利権あさりなどの蛮行を批判し不公正乱脈な同和行政を正すための努力を続けてまいりました。八〇年代にはいると国民融合を目指す同和行攻、同和教育、部落解放運動の前進のための理論と実践を発展、進化させるための努力を続け、更に部落問題の到達段階を踏まえて、同和行政の本来の目的、性格とその功罪等から、可及的速やかに特別措置としての同和対策を完了・終結させて一般対策へ移行し、その行政水準を引き上げることを主張してきました。
 そして九〇年代にはいると地対財特法が暫定的措置を残しながらも基本的にはその歴史的任務を終えて、まさに「二〇世紀に部落差別を持ち越さない」というスローガンは現実のものとなろうとしています。
 和歌山県では既に吉備町、南部町、印南町、白浜町等で同和対事業の終結を明らかにし、あるいは同和子ども会補助金の返上を行った町村も少なくありません。こうした時期に和歌山県部落解放運動連合会高野口支部が「『同和問題解決の到達点』にふさわしくない制度が残されていることに注目」して「同和教育の終結(発展的解消)に向けて私たちはこう考えます」という見解を明らかにしたり、「同和行政・同和教育の終結を目指す和歌山県連絡会」が結成されました。

 こうした動きは私たちが従来おこなってきた主張と一致するものです。そのため私たちは同和対策事業を終結させ国民融合のいっそうの前進のために、「同和問題の提起する課題」が不明確になったことが全県民的な共通認識となっている同和教育について、別項の「提言 同和教育の終結をめざして」を明らかにし、あれこれの困難点も可及的速やかに克服しながら民主教育のいっそうの前進を期したいと考えます。


補論・国民融合とは何か

一 部落問題の解決(国民融合)とは何か


 そもそも部落問題の解決とは何でしょうか。日本にも世界にも、残念ながらさまざまな差別の問題があります。これらは、いずれも人間みな平等という人類普遍の原理に照らして、撤廃しなければなりません。これが大前提ですが、それぞれの問題にはそれぞれの特質があり、それを無視したとりくみは、問題の解決に役立たないばかりか、逆効果をもたらすことが多いのです。
 部落問題の特質は、封建的身分の「後遺症」です。明治維新のあと、日本の近代化が解決しなければならない諸問題を放置したまま、急速に進行したからです。今日、日本の女性問題が先進資本主義国中もっとも厳しいのも同様の結果です。

 その本質に照らして言えば、基本的には部落問題は、今日、元士族であったかどうかが問題にされなくなっていると同様に、旧身分にこだわり、部落住民であるなしにこだわる意識が払拭されれば解決するという問題です。
 女性問題や民族問題とくらべて考えてみましょう。女性問題の解決は決して「女性からの解放」ではなく、「女性としての解放」です。民族問題も同様でしょう。
 しかし、部落問題の解決とは「部落民としての解放」でなく「部落民からの解放」であり、解放されたら「部落民」でなくなることです。
 この部落問題の性質と解決の筋道を理論的に明らかにしたのが、「国民融合論」です。これは、一九七〇年代の中頃に八鹿高校事件など部落解放同盟の蛮行がつづいたころに改めて提起され、部落問題の解決に大きな役割をはたしてきました。
(楠本一郎)

二 同和行政・同和教育行政とはそもそも何なのかを考えてみましょう。

 同和行政がはじまったころ、同和地区の生活は劣悪であり、同和地区には切実な教育課題が山積していました。そこで「同対審答申」「特別措置法」による同和対策事業がはじまったのです。
 同和対策事業は、そもそものはじめから矛盾をもっていました。特別対策をしようとすれば、日本国民の中にあってはならない旧身分の線引きをせざるを得ないという矛盾です。それでも、同和地区の生活実態が劣悪であり、部落差別が厳然として存在するという状況の中では、「線引きしてでも特別対策をする」ということも積極的意義をもっていたのです。
 しかし、同和対策事業と社会の進歩の中で、同和地区をめぐる状況が大きく変わりました。いつまでも「線引き・特別対策」をつづけることは、同和地区内外の垣根をつくるという弊害の方が大きいという段階にきているのです。
 約十年ほど前から、同和地区内外の「学力格差」「高校進学率格差」は、四〇年前とくらべると大きく縮小した段階で、固定しています。このことは、「同和対策」としてこの問題にとりくむことが限界にきていることを示しています。 和歌山市でいえば、不当に手厚く同和対策をされている地域で、いっこうに「格差」がなくならない(逆に「自立」と「交流」をさまたげている)という事実が、そのことを示しています。
 それとはちがって、民主教育をすすめる中で残された課題を解決しようとするとりくみが前進することによって、最終解決への道が開かれるのです。そのことも、県下各地の実践によって示されています。(雑賀光夫)


参考

「二一世紀をめざす部落解放の基本方向」より
 部落問題の解決すなわち国民融合とは、
■部落が生活環境や労働、教育などで周辺地域との格差が是正されること、
■部落問題にたいする非科学的認識や偏見にもとづく言動がその地域社会でうけ入れられない状況がつくりだされること、
■部落差別にかかわって、部落住民の生活態度・習慣にみられる歴史的後進性が克服されること、
■地域社会で自由な社会的交流が進展し、連帯・融合が実現すること、である。
(全国部落解放連合会)


以下「提言」駒井論文がつづく
[PR]
# by kokumin111 | 2015-09-04 10:01

同和教育終結にあたって

同和教育終結にあたって

国民融合をめざす部落問題和歌山県会議
 幹事 駒井 俊英

(一)同和教育とは

 和歌山県における同和教育は、一九四七年、責善教育という名で自主的でローカルな教育運動として出発した(註一)。自主的な教育運動であるが故に融合を進めた成果は大きかったと考えられる。しかし、部落問題解決の進み具合い、つまり運動と理論面での前進さらに経済成長を見越した国策樹立や近代民主主義の熟成など多方面にわたる要素に伴って、教育運動の中身を点検しながら修正を怠ることはできなかった。同和教育運動でいつも関係者を悩ませたのは、同和教育とは何か、ということであった。和同教発足から五年程は研究大会で教課別分科会、一○年位は、「障害児教育」の分科会を設けていたぐらいだから、今になって振り返ればおかしい。運動会の二人三脚は障害者差別ではないか、と同和教育の観点から……これもよく使われたた語句……真剣に議論したところもあった。なぜこんなことになったのかというと、差別という窓口から教育や社会問題をとらえようとする傾向が強か
ったのではないか。その後、同和教育の肥大化や中核論などに批判があり、同和教育は民主教育の一環だということで一応落ち着いたが、一環ではなく一部だ、いやごく一部だという意見もあり、責善教育創設から半世紀の歴史を経て同和教育の終結を迎えようとしているのにすべての人の納得する定説はない。西滋勝先生の定義も「あえて定義するならば、部落問題の提起する教育課題に応える教育的営み」となっていて「あえて定義するならば……」という前置きがある。しかし西定義は同和教育を厳密に吟味する際、一定のものさしとなった。教育学的定義はさておき、最終的に同和教育運動の在り方と同和教育の中身を規定したのは、まぎれもなく国民的融合論である。

(二)「県同和教育基本方針」と自主的民主的な同和教育運動

 和歌山県では他府県で見られたような全県画一の副読本を創らなかった。それぞれの地域で自主的に課題を見つけ民主的な取り組みを展開してきた。県同和教育基本方針にも(学校教育)の項で「全教職員の共通理解のもと、地域の実状に即した
適切な指導方針をたて、児童生徒の発達段階に応じた具体的な計画によって、同和教育の積極的な推進につとめる」とあり、県教委もこれまで自主的民主的な取り組みを保障し、学校や地域の取り組みに干渉することはほとんどなかったといってよい。和同教はこうした県内各地の自主的な取り組みを交流し互いに学び合う場として、多くの県民に支持されてきた。行き過ぎや不十分さは常につきまとったが、民主的討論の中でそれを克服してきたのは、自主的な取り組みであるからこそできたことであった。
 今でも忘れられないのは、部落問題学習の教材研究会におけるエピソードである。七○年代に小中学校の社会科の教科書に部落問題が記述され、小学校六年生、中学校では社会科の教師を中心に教材研究が盛んに行なわれ、和同教の主催する教材研究会も盛況を極めた。幸い和歌山には渡辺広和歌山大学教授がいらっしゃったので、いつも教材研究会の助言をお願いした。「小中でそんなに詳しく学習したら大学で教えることがなくなる」という渡辺先生特有の言い回しで、現場の過熱ぶりに冷や水をあびせた。その後、教科の論理とか子どもの発達段階という学校教育上ごく当然のことが提起され、徐々に正常化した。子どもの部落問題の学習といってもこの場合多くは江戸時代の身分制の学習である。渡辺教授を嘆かせたこのような状況は、その際、子どもが部落問題にかかわって不適切な発言をしたらとか、ときには差別発言として社会問題化するということを恐れたからであろう。発達途上の一二才や一四才の子どもに、部落問題だけをそれも教科学習という狭い領域で短期間に完全な認識をさせることのできないのは、当たり前のことである。それから間もなく、国民的融合論に基づく自主的な同和教育運動の生み出したパンフレット「学業途上の子どもの問題発言について」(一九八三年民研)が発刊され、各学校の現職教育などでも盛んに使用され県内でもまたたく間に数千部を頒布した。これで部落問題
学習最大の支障は理論的には解決した。前近代の賎民身分を表す用語を記載した教科書を採択しておいて、子どもが覚えたてのその用語を使って遊んだら、これを部落差別として社会問題化し、時にはすべて学校の責任として糾弾されることもあった。教育委員会が学校と教育を守るために毅然として対応したという話は、あまり聞かない。幼児から競争に駆り立てられ、思いやりなどという感情の希薄になっている子ども達を相手に苦闘している教育現場の実状を考慮しないで、部落差別という窓口からだけとらえて未熟な子どもの発言を差別として社会問題化するのは、理不尽な話である。このような状況のひどい一部の地方では自主的民主的な同和教育は育ちにくく、同和教育は同和対策教育になっていたきらいはある。身分制の過剰な学習の深層に、このような現実が背景の一つとしてあったと考えられる。国民的融合論に基づく「学業途上の子どもの問題発言」は、子どもの部落問題にかかわった発言を社会問題化しないで、他の様々な問題と同様に学校が主体的に教育的解決をはかるというものである。これの定着した八○年代で同和教育は実質的に終了した、という意見さえある。
 同和教育をめぐる混乱は、初期の責善教育でも見られた。一九六二年に和歌山市部落問題研究会の発表した「部落解放をめざす教育活動のために」という論文では、責善教育の問題点を多方面にわたって、すこぶる大胆にえぐりだしている。「教育をすべて部落差別という一つの『サシガネ』で測定しようとし」とか「立論面で可成りの欠陥があり、知的労働者階級としての教職員がそのときどきにうつりかわる流れを追うに汲々とし『どうもよくわからん』という結果も起きた」などの記述からだけでも当時の状況はうかがえる。同和教育では、他の教育課題であまり見られないような混乱が断続的に続いたといえる。

(三)中身を創ったサークルと自主活動

 一部の地方を除いて共通の同和教育の副読本を創らなかったので同和教育実践の中身を創るのに大きな役割を果たしたのは、サークル活動や自主活動であった。代表的なものとしては歴史教育者協議会、紀南作文教育研究会、生活指導研究会などであるがその他にも地方毎に様々なサークルが存在し、これらのサークルでの実践が、和同教研究大会分科会の中身を充実させた。高校ではなんといっても自主活動であろう。それは社会問題研究会や部落問題研究会だけでなく演劇活動などと幅広い。

 国民的融合論の発表されて以後、同和教育といっても部落問題に直接ふれる実践は少なくなり、人権認識、人間認識、社会認識と教育全般にわたる問題を取り上げてきた。最近では性教育、不登校、いじめ、学級づくり、文学教材、学力問題などの研究講座はいつも盛況であった。県教育委員会はこのことにやや神経質になっていたようで、講座の後援依頼の際、いつも「部落問題は」と訊ねられたが、同和教育研究協議会だから当然のことといえば当然である。自主的民主的な同和教育のもとで自主的民主的な教育研究に一定寄与してきたことは確かであろう。西牟婁地方や日高地方で「人権の教育」へ移行をするのも、中身としてはこれまでの取り組みとの間に断層ができるのではなくごく自然になされたと考える。こういう事情もあって同和教育の終結はおくれてきたように思う。

(四)社会問題と学校教育

■タブーをうちやぶった責善教育
 一九四七年三月一五日付で和歌山県教員組合の発表した「責善教育創設趣旨」が、和歌山県における同和教育の出発である……地域的には前年の一九四六年六月一四日付で現吉備町の御霊国民学校は同和教育要項を作成……。僅か数百字の「責善教育創設趣旨」には「日本民族が一部同胞に対して数百年にわたり血のつながりに於いて拒否し、今なお彼等をして完全に孤立せしめている。思うだに身の毛のよだつこの事実を、多くの世の人は当然のこととして日本民主化の埓外においているばかりでなくして彼等の上に封建的圧迫を加えている」と記されている。
 戦前から新聞社では「菊」と「荊」には要注意といわれていた。「菊」とは皇室、「荊」とは部落問題を指す。戦後まもなくのこの時期、部落問題は民主化の埓外におかれてまぎれもなくタブーであった。もし部落問題が戦後一連の民主化の重要な柱の一つとされていたならば、責善教育は創設されていたか、またその後大きな運動に発展していたか、歴史にもしはないが考えざるを得ない。責善教育創設はタブーに果敢に挑んだという点で、民主教育のなかで特別な位置を与えられるべきだと考える。

■社会問題と知る権利

 ここで同和教育終結にあたって提起したいのは、重大な社会問題と初等中等教育の関係である。
 先ごろ沖縄への修学旅行を企画した中学校にたいして、市教育委員会は「沖縄の問題は国論を二分するような問題だから中止するよう指導した」と報道されていたが、語るに落ちるとはこのことで、教育現場にタブーを持ち込む以外なにものでもない。最終的には沖縄県側からクレームがついて修学旅行は実施された。国論を二分するような深刻で重要な問題だからこそ子どもたちに知らせるべきだという考えは、市教育委員会にはなかったと思われる。
 最近テレビで、大統領のセックススキャンダルについて生徒が自己の意見を述べているアメリカの高校の授業風景が放映されていたが、彼我の違いは何なのか。知らしめない、考えさせないというこれらの事例からわかることは、基本的には子どもを主権者として育てるという観点の欠落であろう。
 たとえ為政者にとって不利な情報であっても、その知る権利の保障というのが自由人権思想である。

■「○○教育」のネーミングは、必要だったか
 部落問題がわが国の近代民主主義のとりわけ自由権の未成熟な状況によって存在していることと、知る権利をないがしろにする公教育におけるこうした教育行政の姿勢は、近代民主主義という指標でみれば同根である。
 ところで沖縄への修学旅行や政治腐敗の問題を○○教育と名付ける必要はあるのか。そのときどきの重要な社会問題を初等中等教育でとりあげるとき、それを○○教育と銘打つ必要はないと思う。ただしタブーさえつくらなければ。
 大切なのは、子どもを主権者として育てるという教育的観点と発達段階に応じた適切な内容かどうかであろう。

■問題点も含めて教訓と成果の整理を
 和同教の研究主題は「部落問題の現状を正確につかみ、憲法と教育基本法にもとづく豊かな教育内容を創造しよう」としており、この流儀でいくと、社会問題の現状を正確につかみ、憲法と教育基本法にもとづく教育をすればよいということになるが、あまりにも大づかみで概念的過ぎる。この際、自主的民主的な同和教育の過去五○年の歩みをふりかえって失敗や問題点も大胆にえぐりだしながら、教訓と成果をまとめて、社会問題と(学校)教育の関係を具体的に整理してみてはどうだろうか。「人権教育」あるいは「人権の教育」への流れができているとき、具体的に整理する作業はすこぶる大切でないかと考える。

(五)融合による生活と意識の変化

■ 特別対策終結には大きく分けて二つのタイプがある。一つは解同などの目に余る無法が住民の批判を受け、首長選挙などを通じて自治体の改革がなされるところ、もう一つは住民の合意に基づいて終結に向うところである。和歌山では幸いにしてかなり多くの自治体が後者で、成果をあげている。
 最も進んでいると思われるのは吉備町であろう。多分全国でも最も早く、責善教育創設以前に御霊国民学校に同和教育要項を作成した吉備町であるが、和同教や有同教の結成された後も町同和教育研究協議会は創らず、同和教育は、町学校教育研究会の当面の重要な柱とした。同和教育終結にあたっては当面の重要な柱をなくせばよいので、いわゆる同和教育の発展的解消とか同和教育研究協議会の改組発展などを考える必要はなかった。また同和教育推進教員を最初に返上したのも吉備町である。このことは同和教育終結にあたって改めて考察すべき価値はあろう。

■ さる一○月二七日、国民融合実行委員会の県教育委員会交渉で、県教育長は「いろいろな考え方のあることがわかった」と述べていた。特別対策や同和教育終結にたいする態度は、考え方の違いというよりも生き方の違いといったほうがよい
のではないか。自立に重きをおくか特別対策依存かである。
 一九九六年五月に発表された最新の地対協意見具申については、多くの人や団体が問題点を指摘している。この三○年にわたる特別対策のなかで、部落住民の生活や感情と意識も大きく様変わりをしたということについてあまり言及されてない。このことも意見具申の最大の問題点の一つであろう。自由権の飛躍的な拡大によっていわゆる通婚も珍しいことではなくなり、また、あらゆる地域や職場に進出し、普段は日常の生活に自己の出自を特別に意識しなくても済むようになってきている。もちろんこのような状況のなかで周辺地域の人々の旧い意識も若い世代ほど急速になくなってきている。経済の高度成長もあって以前のような農村共同体的な生活が大きく様変わりし、「よそもの」などと表現される閉鎖的な地域セクトなどは崩壊し、学校や職場・職域、思想・信条あるいは同じ趣味などでの交際に重きを置くようになってきている。このような状況のなかで部落問題を意識したり、あるいは出自にわだかまりをもつ機会は以前に比べれば極端に減っている。出自に特にわだかまりをもつのは、特別対策や同和教育にふれた時であろう。結婚の際にわだかまりをもつことはあっても、その多くは取り越し苦労にすぎず愛情を大切にし結婚を成就させている。若い世代の地区内外の結婚は、ほぼ八割前後であり、地区外の妻の実家近くに住居を構え、その地域に融け込んでいる例も珍しくない。結婚による融合が、地域の意識を変え融合を加速させている好例である。生活のなかで融合を実
感している人々にとっては、今や特別対策や同和教育は疎ましいものになってきており、早く終結してほしいと思っている。

■ 顕著に表れているのはこの二、三年で一気に前進した子ども会の返上であろう。ある地域では若い母親は地区の子ども会ではなく、地域の母親子どもクラブへ子どもを連れて参加し、そこでは一人一役、少ない予算なので手作りの子どもクラブ活動にいそしんでいる。もちろんこの地区ではその後、子ども会を返上した。
 今日の若い母親は以前に比べれば高学歴であり、また労働者として組織のなかで訓練を受け社会的にも幅広く活動している人も多く、生活や意識の上ですでに閉鎖性を克服している。他府県の話だが、解放教育推進の教師達が子ども達に部落民宣言をさせようとしたところ、若い母親達から猛反発を受けてその試みは挫折した。それ以後、全同教ではこの種の実践報告は激減した。誠に喜ばしい現象である。
 子ども会は、自由権の飛躍的な拡大や住環境整備のほぼ完了した今日、同和地区を周辺地区から際立たせているものの一つであろう。運営やきわめて高額の補助金などで閉鎖的な存在にならざるを得ない同和地区子ども会の在り方に、疑問をもっている人はかなりある。なにはともあれ旧身分をより所に子どもを集めるということは、子どもの世界に垣根を人為的に残しているようなもので、今日では融合を阻害していることに間違いない。こういったことに早くから着目していた地方や地区では、子ども会をここ数年の間で自主的に返上しているし、また現在、返上の準備をしている地区もある。
 どうしても不公平感の生じる特別対策や、部落差別だけの学習や啓発をして、これを特殊化したりする取り組みは、こだわりやわだかまりを増幅していかざるを得ない。わだかまりとこだわりを完全に解消していくには、今日的課題(註二)によって新しい垣根をつくっている特別対策と同和教育を、まずやめることである。

■ しかし特別対策や同和教育に今なお固執する人々は、このような部落内外の生活や意識の変化に注目するのではなく、いまや少数となったおくれた旧い差別意識だけを取り上げようとする。しかもこのような人々は、不公正乱脈なあるいは不公平感の生じている特別対策による今日的課題については触れないし、それに基づく新しい意識の問題についてもなぜか避けている。特別対策や同和教育の重要性を主張する人々は、利権とか高額の補助金あるいはポストなどの既得権益に固執しているとしか考えられない。同和問題の重要性を人権教育のなかでことさら強調する県教育委員会の姿勢は、融合を阻害するものであり、新たに今日的課題の一つに加えなければならない。
 「可及的すみやかに」部落問題の解決を図るということで特別措置法による同和対策事業は始まった。対県交渉の席などで行政側の挨拶ではもう何年間も「早期解決を目指して」と枕言葉のように述べるが、それでは子ども会終結のめどはと問えば、答弁不能になる。特別対策を三○年も続けてきて「早期解決を目指して」でもあるまい。吉備町など県内いくつかの町村のように全体であれ部分的であれ終結の前進しているところと、まだ特別対策終結のめどさえ立っていないところとの違いは何か、問いたい。行政の責務は、早期解決から特別対策の早期終結・一般対策への移行と具体的になっている。

(つづく)
[PR]
# by kokumin111 | 2015-09-04 09:09

同和教育終結に当たって (2)

同和教育終結にあたって (つづき)

(六)同和教育推進教員について

 この三○年間で同和教育推進教員の果たしてきた役割は非常に大きい。しかし融合が前進し、部落問題は大きく様変わりをしてくるなかで、本来の役割は減少し、それぞれの学校の実状に即してその任務を決めている例も多いと思われる。同和教育推進教員の人事と任務については、学校として悩ましい問題となっているところもあるのではないか。融合が著しく前進し部落問題の提起する課題も変化していることと、同和教育推進教員の存在との関連について、本質的な問題で論議を深め、検討の必要な時期にきている。
 同和教育推進教員の配置されている学校は、毎年、指定地区(註三)の子どもの旧身分を特定し、その人数を県教育委員会に報告する。このことをほとんどの親は知らされていない。この旧身分の特定は、一三○年余り続いてきた過去の習俗的差別に基づいてなされていて、当然のことながら他に資料はない。本人の戸籍謄本を見ても三代前までしかわからない。
 婚姻と居住の自由は大正デモクラシーの息づいていた水平社創立後の昭和初期に一定拡大しており、それ以後この三○年で飛躍的に拡大している。行政の指定地区の周辺に居住している人は以前から多いし、この三○年で、地区外からかなり多くの人が移住してきている。地区内に住んでいても地区外との結婚は多い。旧身分の血が二分の一、四分の一などという子どもも相当数あると考えられる。この点についても調査にあたって何の決まりもない。今や住環境の改善、婚姻と居住の自由の飛躍的な拡大とによって、人の流出入は多くなり、三○年前、行政上の地図に引いた地区内外を分ける線は、ほとんど意味をもたない。学校がやらされている地区内の子どもの旧身分の調査は、教育実践上のメリットも考えにくく、同和残しに一役買っているだけで融合の弊害になってきている。
 このところ行政は同和教育の重要性や必要性の理由づけに盛んに較差を持ち出すが、較差といっても公的に区別した指定地区内に居住している旧身分の者だけ、それも婚姻による融合は勘案しない調査によるものと全体との較差である。

 こういった調査によるものであっても、較差は部分的、限定的なものになっている。特別対策は「きわめて劣悪で低位な実態」を解消し、融合を為し得る状況をつくることにあり、それができればたとえ較差は部分的限定的に残されていてもできるだけ早期に特別対策や同和教育は終結すべきである。なぜなら今日もなお残されている問題は、さまざまな要因を背景としており、同和という枠組みのなかで従来の取り組みを漫然と続けても解決できない。
 同和教育推進教員の制度の廃止を要求するとともに、少なくとも子ども会の自主的な返上が、それも相当数進んでいる和歌山県では、自主的民主的な同和教育を推進してきた経緯から、同和教育推進教員の返上も自主的に行なうのが望ましい。なかでも子ども会の返上をしたところで旧身分の調査を伴う同和教育推進教員を置いておくのは、どのように考えても理屈に合わない。子ども会の自主的な返上は、部落から学校に投げられたボールであり、学校はこれをきちんと受け止め投げ返す必要がある。だから、三○人学級実現や指導困難校加配などの教育条件改善の要求は要求として明確にし、同和教育推進教員の自主的な返上を促進すべきである。また子ども会のある地区でも「部落問題の提起する教育課題」のない学校は、もちろん同和教育推進教員の返上も念頭にいれてそのことを部落の保護者に投げかけ、子ども会と子どもの課外活動のあり方について保護者と話し合うことも大切ではないか。これは同和教育推進教員配置校の最後の責務でなかろうか。

(七)先駆者の先見
 責善教育創設に参画し、全同教の結成にも参加(和歌山県からは三人)した故桜谷正雄氏は、晩年、和同教副会長として活躍されたが、特別対策の始まった一九七○年頃すでに「同和教育は早く終えなければならない。そのために一生懸命同和教育を推進するのだ」とおっしゃっていた。また役員を引退された後の八○年代の後半になって、同和教育を続けていることについて手厳しい批判をなさっていた。
「日本民主化の埓外」におかれたという責善教育創設の趣旨からして、国策として特別対策の始まった時点で終結ということを視野にいれておられた。これは今日的課題を地対協が指摘するずっと以前の話であり、特別対策の大きなうねりのなかで「そこのけそこのけ同和が通る」とやゆされた世間の風潮を早くから肌で感じ、わだかまりとこだわりのない民主的な社会に思いを馳せておられていたようにも思う。

(八)逆流の「人権教育」

 同和教育終結にあたって私達にたちはだかる新たな課題が生まれてきた。それは一九九七年に県教育委員会の発表した「人権教育」である。特別行政から一般行政への移行が国の方針であり、全国的には終結をした自治体もかなりの数にのぼる。また段階的に終結にむけて計画をつくり実行に移している自治体はさらに多い。特別対策から一般対策へと移行する趣旨に沿って同和教育を人権教育へと発展させるのかと思えばそうではない。「人権教育」ではその前文に「同和問題を人権問題の重要な柱として明確に位置付け」とある。和歌山のこれまでの五○年にわたる責善教育から同和教育への積み重ねから見れば、この文言はすこぶる奇異に感じる。
「人権教育」と標榜する限りは憲法の基本的人権のすべてを包括するものでなくてはならないし、人権に重要な柱とそうでないものとあってはならない。和歌山県ではほとんど例はないが、研究団体と行政が癒着して排外主義的な同和教育や解放教育を推進したところでは、融合の前進するなかで理論的にも実践的にも同和教育は行き詰まっていて、国民の同和教育への批判はきびしくなっていた。そこで「人権教育のための国連一○年」(一九九五年から二○○四年)の取り組みに逃げ込んだものであろう。国連の取り組みは教育権の確保が主旨であり、一○年の行動計画の半ばになろうとしているのに、国内行動計画を作成しているのはフィリピンとインドネシヤ、それにわが国の三国である。
 これと関連して気になるのは、さる一○月一日付の広報紙「県民の友」に発表された「『人権教育のための国連一○年』和歌山県行動計画」である。その前文に「わが国においても残念ながら固有の人権問題である同和問題」という文言がある。この「固有」という言葉について県推進本部にくわしい説明を求めねばなるまい。同和問題がわが国固有の人権問題となると、歴史認識の問題として歴史学の成果を無視したものとなり、これは大変なことである。また同対審答申の歴史認識とも異なる。県推進本部と県教育委員会の「人権教育」とは連動しているものと考えるのが妥当である。だから「同和問題を人権問題の重要な柱として明確に位置付け」という文言は、部落問題を「固有」の問題として特殊化して、県民のおくれた旧い差別意識のみを追求するという行政側の意図を、すべて物語っている。かつて、ねたみを「ねたみ差別」として県民の特別対策批判を封じてきた県行政と本質的には変わっていない。
 聞くところによると、県教育委員会の指導主事は、地方に出かけて現場の校長や同和教育推進教員あるいは市町村教育委員会に、「人権教育」推進の立場からかなり高圧的な発言をしているらしい。地方では、学校、各種団体、行政、個人など一体となって郡市同和教育研究協議会に結集し、自主的民主的な同和教育に長年なじんできたので、かなりの不協和音を生んでいる。

 県同和教育基本方針は策定の際は広く県民の意見を聴いてつくられた。「人権教育」については突然発表され、押しつけをしている。先に述べた地域での自主性を尊重する県同和教育基本方針との整合性はどうなるのか。このような事態を見れば、やはり「人権教育」批判を全県規模で徹底しなければならない。そうでなければ、ここまで進んできた融合と民主教育の前進を、今や逆流となった官制の「人権教育」によって阻害されることになる。

(九)融合の最終責任は民主運動が果たす

 特別対策のねらいは、早急に「劣悪で低位な実態」を経済の高度成長のなかでなくし、融合をなし得る状況をつくることにある。融合を完成させるのは、特別対策ではなく、それぞれの地域の自立とか自治などの民主的力量である。自立の精神の希薄な特別対策依存の姿勢は、人間を堕落させ、新しい垣根をつくるのではないか。
 特別対策や同和教育は王道ではない。部落問題は、わが国の行政レベルが高ければ、本来、一般行政と民主教育や地域の民主的力量で解決をしていくのが基本である。したがって特別対策や同和教育は、それらを補完するものである。かつて全解連の中西書記長(当時)は「部落問題に最終責任をもつのは私達である」と繰り返し述べていたが、自立と融合を目指す全解連としては当然のことである。三○年にわたる特別対策は、今日的課題という新たな垣根をつくってきた。この事実に照らせば、自立と融合を前進させるため、まず同和教育を終結させなければならない。ついで憲法と教育基本法に基づく教育を教育行政に保障させ、さらにこれを充実させていく運動を展開しないと、最終責任は果たせない。 他府県では、全解連や全教など融合を進める団体は、同和教育の終結を県教育委員会に強く要求している。和歌山県でもこれらの団体は、県教育委員会に同和教育の終結を強く要求しなければならないが、終結の主体は、あくまでも半世紀にわたる自主的な取り組みの積み重ねをもつ研究団体や教職員組合また学校や地域である。終結の意義を明確にし、終結への大きなうねりをつくっていく自主的な運動が、逆流となっている官制の「人権教育」を形骸化させ、融合を進めることになるのだから、これは素晴らしいことである。              

(註一)同対審答申が出てから同和教育を始めた県も多い。和歌山県教員組合による責善教育創設は、昭和二二年という時代を考えれば画期的なことである。当時教員の間でもかなりの頻度で差別事件は起きていた。

(註二)地対協が一九八六年の意見具申で指摘した「地域改善対策の今日的課題」をいう。同対審答申の時期には考えられなかって、特別対策によって生じた新たな課題を指す。それは
 一、行政の主体性の欠如 
 二、同和関係者の自立、向上の精神のかん養の視点の軽視 
 三、えせ同和行為の横行 
 四、同和問題についての自由な意見の潜在化傾向である。

(註三)同和地区ともいう。三○年前、特別対策を実施するにあたって行政上便宜的につくられた行政区画である。同和行政実施後まもなく、道路整備などの事業で、地区外の道路の方がせまくなったりし、様々な矛盾が出て、地区内外を分ける線引はほころび始めた。そこで一九八二年、法を同和対策事業特別措置法から地域改善事業特別措置法に改め、法に「周辺地域との一体性の確保」を盛込んだ。地区は特別対策としての同和行政を完了すれば早くなくさなければならない。三○年にわたる地区内の住環境整備と自由権の拡大による人の流出入で、地区指定は実質的に無用になっている。それなのに今でも教育では「地区児童生徒」「地区の子」などという用語を日常的に使用している


[PR]
# by kokumin111 | 2015-09-04 08:11

八鹿高校事件の思い出

暴行翌日の「八鹿病院激励」
「朝来町調査報告書」「八鹿高校事件調査報告書」のことなど
        

         雑賀 光夫 日本共産党和歌山県議会議員
                 当時・和教組海草支部書記長

(一) はじめに
 八鹿高校事件から40年になるのですね。
 和歌山県部落解放連合会の元書記長・竹田正信君から「なにか思い出を書けるか」と電話をいただきました。
 早速、若き日に事実上私の責任編集でつくったガリ刷りの「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)第8号を引っ張り出しています。
 そこには「朝来町調査報告書」(1974年11月4日)と「兵庫県八鹿高校事件調査報告書」(1974年11月23日)が収録されています。どちらも、私が参加して、まとめ、自分でガリきりしたものです。二つの「報告書」をベースに書いてみたいと思います。
         
(二) 朝来町への自主調査
 「朝来町調査報告書」には、冒頭、次のように書いています。
 「朝来町で大変なことが起こっているという。『点検・確認・糾弾』という名のもとに、『解同青年行動隊』と名乗る人々によって、教育への不当な介入が行われているばかりでなく、教組朝来支部長・橋本先生宅がとりかこまれ、監禁され、流血の事態さえ生まれているという。
 解同中央本部との関係でこのようなことが行われているとしたら、和歌山県がかかえている問題でもあって、(注 当時、和歌山県の民主的部落解放運動は、部落解放同盟内にとどまっていた)私たちは決して無関心ではいられない。しかし、今の世の中でこんな事が行われているのに、一般の新聞が報道しないなどということがありうるだろうか。
 こんな疑問を持って私たちは朝来町に行ってみようと決心した。」
「とりくみにあたって、和教組海草支部は、教組の近くの支部、海南海草同推協、海南市同和室、海南市教育委員会教育課、市職労、市職部落研に呼びかけた。急なことでもあったので結果的には、教組の雑賀、同推協の藤田の二人で行くことになった。」
「私たちは、この事件の被害者である橋本先生や佐藤町議のほかに、町当局の話も聞きたいと思っていた。しかし、今日の朝来町では、それは大変な危険を伴うと聞き、前記2カ所のほかには、高教組和田山商分会の先生に会うにとどまった。」
30才の青年教師・海草支部専従書記長であった私は友人である海南海草同和教育推進協議会会長の藤田勉くん(27才)と二人で「現地調査」に出かけたのでした。
………………………………………
「報告書」から少しぬき出してみましょう。
 橋本先生支援の人たちのマイクロバスに便乗して午前6時、竹田駅前へ。佐藤理髪店は、駅のすぐ近くにある。入り口の大きなガラスがわれたところにはベニヤ板をはりつけ……
 佐藤理髪店で佐藤・西岡両町議から話を聞きました。
「但馬では解放運動は遅れていました。解同県連というのはなく、『解放県連』というのがあって、解同と同和会の両方に首をつっこんでいました。(その後解同県連になる)昭和48年の『西宮事件(窓口一本化要求)』を通じて『青年行動隊(隊長・丸尾)』が組織されました。(いろいろな事件を通じて、解同が発言権を増していきます。)
 和田山中学校に赴任したO教諭が「解放研」をつくり、「解放研ニュース」を壁に貼り回します。それへの反発から「解放研をつぶせ」というポスターを貼ったものがいました。これが「差別落書き事件」です。それをきっかけに「学習会を開くから出てくれ」と校長に申し入れ、校長は受け入れます。教組朝来支部は、その実態を見抜いていましたから、「この会にはでない」と決めました。それを切り崩し、「学習会」に出席させました。
 その場で、ある先生が「義務教育の中学校に解放研はおかしい」と発言したことを、教育長は「この発言は差別の生きた証言だ」といい、出席者に差別であるかどうかを確認させていきました。
 こうして、解同や「解放研」を批判する教組朝来支部の橋本支部長宅をとりかこみ、糾弾するという事態にまでなったというのです。
 こうした事態を批判するビラをまこうとしたら、取り囲まれ、糾弾され流血の事態も生まれたと佐藤・西岡両町議はいわれます。
 「ある人は私の家に来てビラを持って出ようとしたところを殴られ、引きづり回され、柱に顔をこすりつけられました。幸い失明をまぬがれましたが
 このあと、私たちは橋本哲朗先生のお宅にタクシーで伺い、お話をお聞きしました。佐藤さんは「アブナイナー」といわれたのですが、若かったのです。
 私たちはその「報告書」の「9 おわりに」として次のように書いています。
「私たちが話し合ったのは次の人たちです。
 佐藤町議 西岡町議
 佐藤さんの家の近所の本屋のおばさん
 弁護団の人々(少ししかはなせていません)
 橋本先生とその家族
 和田山高校の原田先生、西口先生
 タクシーの運転手
このなかで、タクシーの運転手だけは、橋本先生の側にたっていない人でした。しかし、タクシー運転手から聞いた事実は、他の人々から聞いた事実と食い違ってはいませんでした。同じ事実をどうみるかという事だけは違っていました。
 (注)私たちがタクシー運転手と交わした会話を「報告書」から紹介しておきましょう。これは普通の住民の意識を示す「証言」として、そのまま「調査報告書」に収録したものです。
【調査団「この間から大変だったでしょう」
 運転手「佐藤さんにとっては不利でしょうな。今までみたいにやれないのとちがいますか。」「田舎のことですから佐藤さんの家に入っていくと、あの人もかと見られます。」
 調査団「このことについて批判はないのですか?」
 運転手「橋本先生のことで盛り上がりました。佐藤さんは、橋本先生の家に行って出てきたところを皆に取り囲まれたのを皆がみています」
 調査団「部落のことについてなにも言えませんね」
 運転手「なにも話できないというのは甘いですね。ビラなんか出しても効果ないですよ。町役場から指示が出ているので、私なんか読まないで左から右ですよ」(意味がとりにくい点もあるが原文のまま)】
……
(調査ききとりをして)私たちが考えたことは「これはファシズムと一緒だ!」ということでした。
今の社会に不満を持っている人々を誤った方向にあおりたて、その力で労働組合をきりくずし、反共の方向に人々をあおりたて、反対する人々は暴力でたたきつぶしながら地域世論を操作する。これが、ファシズムのやりかたではないでしょうか」(「朝来町調査報告」より)

(三)和教組本部からの「八鹿調査要請」
その調査から半月もたたないうちに、私はまたもこの地に向かうことになったのです。「八鹿高校事件調査報告書」の冒頭に、私は次のように書いています。
 「11月22日の夕方、和教組本部から電話がありました。「兵庫県八鹿高校の組合員が『解同』丸尾一派に体育館に引きずりこまれ暴行を受けている。兵高教から一時間も早く来てほしいという要請があった。和教組として調査団を出したい。今夜からいってくれんか」
 電話してきたのは、和教組責善(同和)部長の岡本佳雄さんです。私は、即刻「行きます」と答えました。その半月前に、朝来町への調査に出かけ、『解同』に自宅を囲まれて脅迫されてがんばった橋本先生のお宅にも伺い、町の人たちからも「丸尾一派」の蛮行を聴いてきていたばかりですから、和教組本部からの電話の意味はすぐわかりました。そして、重大な問題の証人として派遣されるということが……
その数時間後に和教組本部で堀井雅文さん・瀬村佳正さんと「調査団」をくみました。私は一番若かったのですが、支部の専従書記長、和教組では執行委員でしたので「団長」ということになり、夜九時、チャーターしてもらったタクシーで和歌山を出発しました。
 
(四)事件翌日の八鹿病院激励

 豊岡高校に着いたのは、翌朝、午前二時のことです。かんたんな状況説明を受けたあと、支援のみなさんと一緒に、大きな和室で寝ることになります。
 寝ようとすると、どこかに電話をかけている声が耳にはいります。
 「○○先生が行方不明……。水をかけられた。いっぱい? 杯?」
 暗い中でメモをしたのでしょうか。「報告書」にそう書いています。
 「翌朝5時50分起床。単独で行動できないため、支援に来ている高教組の人たちと行動することにした。私たちは京都から来た人たちと一緒に第7班にはいった。」と「報告書」には書かれています。
 はじめは、「ビラまきにいってもらう」という話だったのですが、現地の段取りの都合でしばらく待機していると、「八鹿病院に激励に行ってください」ということになったのです。
 「午前8時半に病院につき、9時から病室にはいりました。私たち3人がはいった病室では、被害者が眠っていて話を聞けませんでした。
 『隔離病棟にも入っている』ということでそちらに回ります。二つの病室に8人がはいっています。
 『何かみんなに伝えたいことはありませんか』と聞くと『僕たちあの暴力の中で確認書を書かされてしまった。それは認めずにがんばるつもりだが、がんばりきれるかどうか心配だ』寝たきりで体を動かすのもままならない方がおっしゃいます。
 隣の部屋の方は、体中きずだらけだが、まだ元気です。女の方がいらっしゃる。顔中、とくにまぶたが腫れ上がっていて、気の毒で目をそらせました。
 一人の先生がおっしゃいます。『生徒たちが先生を帰せとがんばってくれたそうです。そのことが一番大きな支えになりました。』
 「今日、バスケットボールの試合があるが、こんな状態なので相手の学校に連絡してくれませんか」といわれる先生もいます。
 付き添いの方が『警察は見ているだけでなにもしてくれなかった』と言います。
 9時40分に病院をでました。町を『解放車』が、『八鹿高校で集会を開きます。町民一人残らず集まってください』と叫んで走っています。ゼッケンやはちまきをしめて会場に向かう人もいます。」(ほぼ「報告書」のまま)
 あとからお伺いすると、私たちが病院に激励に行ったあと、警察にシャットアウトされ、入れなくなってしまったということでした。

(五)組合分会からの報告
 その後、豊岡高校にもどって八鹿高校の入院していない先生から当日のすさまじい状況を聴かせていただいたのでした。組合執行部として報告されたのは、後に私が和教組県本部書記長として日教組の会議などに出たころおつきあいさせていただくことになる西岡委員長でした。そのころは書記長だったでしょうか?
 私は、和歌山に帰ってすぐ、見聞きしたことを「報告書」にまとめました。その「報告書」から、私が聞き取った暴行の実態をもうすこし拾い出してみましょう。
(1)
事件がおこるまで
・昨年(1973年)秋、解同県連・青年行動隊がつくられ、丸尾が隊長になった。
・今年の5月から、八鹿高校にも「解放研」をつくられはじめた。
・但馬では、奨学生の一泊研修会を開き、校長・教頭・同和主任が参加した。教育事務所長が「教師は敵だ」という教育をして、モデル糾弾会をし、校長・教頭から確認書をとった。
・校長は、夏休み中に二階の一番立派な部屋を解放研部室にし、看板をかけてしまった。
・教師集団は、このようにしてつくられた解放研との話し合い(糾弾会)には応じないという態度をとっており、解放研は「応じよ」と要求してハンストにはいった。
(2)
11月21日におこったこと
 校内でやられたこと
・集団登校してみると、解同が乗り込んできて異様な雰囲気なので、SHR(ショートホームルーム)だけやって、生徒は帰らせようと言うことになった。校長は職務命令を出して、授業をつづけよと命じた。
・それでも10時ごろから集団下校をはじめた。解同がきても町内に出ればなんとかなると思ったので、スクラムを組んで200メートルほどすすんだが、解放車にはばまれ、すすめなくなった。
・「これが解同の正体だ」とさけんだが、一人一人ごぼう抜きにされた。
・あるものは、両足をつかまれ頭を下にしてひきづられ、あるものは4人で両手両足をもたれ、あるものは、車の荷台に放りあげられ、という具合にして、第二体育館に引きづり込まれた。
・体育館でマットと平行棒をおいたところに並ばされた。ある先生は、そのとき口から血を出してものをいえないくらいだった。Yという女の先生は、そこでいきなり髪をつかまれて、突き倒された。
・バラバラにして解放研と話し合うことを要求した。それに対して同じ事を繰り返すものには
 バケツで水をかける
 首筋をつかんで引き回す
 なぐる
 足首の上に革靴でのって、ぎりぎりやる。
・暴行は夜の10時までつづいた。解放研と話し合うことを認めたものは、会議室につれこまれた。そこで「自己批判書(確認書)を書くことを迫ってくる。
・再び体育館にあつまられ、糾弾を受けた。
・丸尾は、片山先生に「おまえは確認書を書いたが、自主的に・主体的に書いたんだな」という。片山先生が拒否すると、後ろのものが「殺してしまうぞ」と怒鳴る。こうして認めさせてしまった。
 生徒たちは() (生徒たちが丸尾一派に抗議した感動的な話がここでも報告されました)
 校長と警察は(略)
 その後おこっていること(略)

(六)真実を伝える「調査報告」活動
 私は、ガリ刷りの「報告書」をつくって、和教組県委員会で報告しました。ところが、当時、社会党が「解同」丸尾一派を擁護する立場に立っていました。和教組の役員の中にはごく一部ですが「暴力がふるわれたという事実があるかどうかわからない」と主張する役員もいたのです。私が、見てきた事実を報告したときでも、「この報告は、一方の側の意見しか聞いていない。『解同』の意見を聞きに行っていない報告書は『欠陥報告書』だ」と主張するある支部の支部長までいたのです。
 その後、和教組は、異論を持つひとたちを含めて「調査団」を出すことになり、私は三度、この地にむかったのでした。解同を擁護する人たちは孤立していきました。さらに私は、その年に海南市で開かれた県責善教育研究集会全体会議で、西滋勝先生の「自主的民主的な同和教育の教訓」の講演のあとで、特別報告として「八鹿高校調査報告」をすることになります。和教組本部としては、八鹿高校での解同の暴行を批判する確固とした見解を表明することができました。
 その19741219日の夕方、私は、たしか和教組本部にいたとおもいます。テレビで衆議院予算委員会の中継が流れました。日本共産党の村上議員が八鹿高校での解同の無法・暴力問題を追及したのです。
胸のすく思いが今でも忘れられません。 それをきっかけにして、「解同」の無法・暴力が広く知られることになります。校長先生たちが競って「赤旗日刊紙」を講読したいといってくれます。真実を伝える新聞は、ほかになかったのです。
その歴史的時期に自分の判断で朝来町に足を運び、また八鹿高校事件ではその直後に駆けつけて、真実を和歌山の皆さんに伝える役割を果たすことができたことは、私の誇りとなっています。
 私の友人の植西一義くんは、当時、日本福祉大学の学生として支援に入ったそうですが、「手を合わせて拝むようにしてくれたおばあちゃんの姿が忘れられない」とよく話してくれました。
 八鹿高校の先生方、朝来町の橋本先生などのたたかいは、多くの人たちに感動を与えてくれたのです。
                     (2014年6月10日 記)


[PR]
# by kokumin111 | 2015-09-04 08:09